今回取り上げるのは漫画「センゴク」です。
戦国時代を舞台に描かれる千石権兵衛の出世物語。さまざまな歴史上の出来事の裏に隠された人間関係をナナメヨミ!
ナナメヨミ
第5回:『下克上』という上昇志向の解放
2013.12.17
センゴク
センゴク 宮下英樹
『国盗り』ではなく『国造り』の物語
来年の大河ドラマの時代背景は戦国時代らしいので、マンガではあるが戦国時代を取り上げたいと思う。週刊ヤングマガジンに連載されている『センゴク』[i] というマンガである。
『センゴク』は千石権兵衛(せんごくごんべえ:作品中は『ゴンベエ』と呼ばれることが多い)という武将の出世物語として書かれている。この武将は織田信長の美濃侵攻時に秀吉の配下に加わり、秀吉の子飼いの武将として出世をしていく。その出世の過程を通して戦国という時代や、織田信長や豊臣秀吉などがどのようなことを考えて行動していたのかをよりリアルに描こうとしている。
さて、この『センゴク』というマンガ、初期は戦国時代の合戦に参加している一兵卒の葛藤という要素が大きかったのだが、回を追う毎に政治的な色合いが強くなってきている。ゴンベエが出世することで、政治的な動きが増えてくることは理解できるが、最近はゴンベエが一切出ず、明智光秀と豊臣秀吉の葛藤を描いたりしている。
そのため、軍事的英雄の歴史に残る戦いを追いかけるだけでなく、個々の戦国大名の個性やその個性に基づいた国造りの差が細かく描かれているところが面白い作品になっている。
今回は作品中、織田信長が国造りの基本としている『下克上』という思想と、それがもたらしたものについて考えてみたいと思う。
『桶狭間の戦い』の本当の意味
この『センゴク』には外伝があり、『桶狭間の合戦』を主とした作品になっている。なぜ、桶狭間を書かなければいけないのかというと、戦国時代というものがどのように始まり、どのように終わらせる方向を見つけたか、その分岐点が桶狭間に集約されているということである。
桶狭間といえば『今川義元が当時小国でしかなかった織田をなめてかかり、そのためにやられてしまったウサギとカメのような話』とお考えの方も多いかと思う。『センゴク』で書かれている今川義元は政治と軍事の天才であり、戦国時代で初めて『戦国大名』になった英才として書かれている。この 『戦国大名』ということだが、中央政府から独立して自家(ここでは今川家)の実力を持って地域の支配を宣言した初めての人ということである。つまり、失墜したとはいえ、室町幕府の権威を使おうとしていた地方の守護大名から、自分たちの領土は自分たちの法で守る、と独立宣言をしたということである(この違いもこのマンガを読んで初めてよくわかったのだが・・)[ii] 。
今川家が支配権を確立したということは、耕作地とその生産物を管理下に置いたということである。つまり、耕作地を守るための法と軍であり、その秩序が守られている前提があるので、大軍を編成して京都へ進軍できたりもした訳である。よって、土地とヒエラルキーに支えられた農耕型の高度な組織というのが、今川義元が織田領に向かっていたときの軍であり、国の成り立ちでもある。
対して、織田信長が持っていた織田領というのは、津島と熱田という寺社町と伊勢湾の交易路を背景とした経済力が国の背景になっている。つまり、土地に執着している訳ではなく、交易の活性化によって、国力を上げていくことが基本戦略となる。その事が『下克上思想』と相まって急速な発展を遂げていくことになる。
つまり、この2武将が戦うということはその後の経済システムを賭けた戦争でもあったということである。今川家が米という実体経済を中心に強固な組織作りがなされているのに対し、織田家は耕作地を引き継ぐのに適した家父長制からあぶれた人材、農家の次男三男を集めた馬廻衆(親衛隊)や耕作地を持たない商人の力、つまり自由競争に基づく貨幣経済を主眼に置いた組織作りがなされているということである。
そのため、最終的に織田側が勝つということは、貨幣経済の勝利であり、同時に実需以上の欲望の勝利であるということになる。実需以上の欲望、つまり、バブルを煽っているともいえるし、その欲望を肯定する力が織田家を強国に押し上げていくということになる。
同時に、際限なく欲望(上昇志向)を煽られても対応できたのが豊臣秀吉と明智光秀であり、特に秀吉は農民から大名へという下克上思想の体現者となっていく。
『欲望を解放するシステム』の力と弊害
さて、『下克上』という欲望の解放は、確かに織田家を強国にする。身分の上下を問わない優秀な人材の登用や重臣間の競争意識などによって成果を生み出していく。経済政策に主眼が置かれているため流通が活性化し、経済規模も向上していく(つまり、金回りが良くなる)。
だが、興味深い問題点も生じてくる。『欲望を加速する流れが強くなりすぎる』ために『一度システムに組み込まれると離脱できない』という問題である。『下克上』で構築される国家では、『欲望を発揮しないという自由』、『競争から降りる自由がない』ということである。『自由競争』というのは参加も自由、撤退も自由なはずなのだが、信長と部下達には『競争を放棄する自由』がなくなってしまう。
なぜなら、『激烈な競争』下では『自然淘汰』の原理が動く。これは敵を淘汰するのにも使える力だが、競争を放棄する身内も自動的に淘汰してしまうということになる。競争から降りようとすれば謀反を起こすか、無能を断罪され、淘汰されるかどちらかになる。
又同時に、全員が均等に上を目指す状態になってしまうため、結果として信長を中心としたより集権的な組織へと変貌してしまう。自由競争本来の、より良い発想に資源が集中していくようなシステムではなく、『信長という勝ち馬に乗っかり続ける』というしか選択肢がなくなってくる。
もう一つ、戦闘規模が拡大するにつれて、それに利用するインフラも拡大していく。そのため戦闘一つ一つが大規模な経済行為になってしまう。つまり、戦闘を止めること自体が経済の停滞を招きかねないということである。経済の停滞は織田政権の基盤を揺るがす問題になるので、こちらも競争から降りられないシステムを助長することになる。
そのシステムがその性質を持っていることはわかっているが・・・
一つの解決法としては、『際限なく戦争行為を続ける』ということになる。つまり外征である。よって信長自身が『唐入り』を考え始める。
『欲望を制御するには(バブルをソフトランディングさせるには)?』と重臣である秀吉や光秀も考え始める。最終的にはそこを悩み抜いた光秀が、信長(のような頂点に立つ人)がいなくても機能するような政治経済のシステムを導入しようとして本能寺の変を起こすというストーリーになっている。
さて、現在のストーリーは山崎の合戦が終わったところである。秀吉はいまのところ『民衆の欲望に乗っかったまま、いけるところまで行く』と考えているようだ。しかし、秀吉の天下統一が成っても、結局『唐入り』が発令されてしまうということを前提に考えると、この『欲望の制御』というのが戦国の英雄にとっても重要な問題であるとは言えそうである。
参入と撤退が自由なオープンなシステムはその利点ばかりが強調されやすい。だが、競争による効果的な資源の再配置は、強力な力であるが故に、その力から逃れられなくなるというのは何とも皮肉なシステムだなと改めて考えさせられてしまう。オープンなシステムが力を持っていることはわかっているが、簡単に利用できると考えてしまうのは浅薄かもしれない。
さて、来年の大河ドラマではどんな『戦国時代』が描かれるのか、楽しみに待ちたいと思う。