古野のブログ
数字で「組織や人」を観ることの意義
2017.07.05
前回に続いて、我々の歩みから、これまで「数字で組織や人を観る」ことへの反発がたくさんありました。最近はAIに対する関心も高くなり、ある程度変化してきたとは思いますが、まだまだ偏見はあると思います。共有させていただきます。
これまで23年間で一番多かった反発は、以下の3つです。よく言われるKKD(経験と勘と度胸)の典型かもしれません。
1. そもそも、わかるはずがない
2. 数字で判断するなんて、冷たい対応じゃないか
3. 人はそんなに合理的でないはず
1の人は旧来の経験主義的な人です。数字やロジックで組織や人はわからないと思い込んでいるようでした(最近も変わっていないでしょう)。我々がFFS理論の説明で「相性が科学的にわかる」と伝えても、一向に理解しようとしません。場合により敵対視されたケースもありました。
そうでしょう。天動説の時代に「地動説」を唱えたコペルニクスが魔女狩りにあったようなものです。自分たちが〝絶対と信じていたこと〟が否定されるようなものですから。
データを取り、仮説検証を繰り返ししていくことで何らかの相関が取れます。それをさらに検証して再現性があるロジックに仕上げます。人が様々な情報に影響を受けて下す判断よりも、精度の高い判断が出来るのです。将棋の世界でも人工知能が勝つ時代を迎えたことで、データによる判断の精度が高いのは自明となりました。「数字でわかるはずがない」という考え方が〝時代錯誤であった〟ことを、いよいよ自覚しなければならない時代になったのです。
2の人は、「あいつ40代になったよな」という年齢や同期の出世情報、それから出身地や家族構成、さらに「頑張っているから」という情けや、「誰々と繋がりがある」という人脈等々、様々な情報を考慮して〝気配り〟で人事の意思決定に取り組んできたと自負があるでしょう。バイアスが有利に働いた側にとってはいいでしょうが、贔屓されなかった側にすれば、とても冷たい仕打ちとなります。
贔屓された本人も、上手くいけば問題ないのですが、過分な贔屓であれば〝居心地の悪さ〟を感じることもあり、「期待に押し潰された」ケースも多々あります(実際に悩んでいる人にヒアリングしたこともあります)。情実人事はどこかに歪みを生みます。優しいどころではありません。
逆に客観的な指標では、その時点で考えられるベストな昇格や配置、異動をおこなえますので、上手くいく可能性が高いのです。決定した理由を伝える説明責任も果たせます。つまり結果的に温かくなるのです。科学は皆に平等で温かいのです。
3に関しては、その通りで合理的でない人もいますが、極めて合理的な人もいます。つまり、「全て、人は合理的でない」と決めつけることではなく、人はそれぞれであることをデータから読み取ることなのです。
また、最近は、こんなケースも増えてきました。数字で組織や人を科学的に見ることの精度を理解したことで、逆に懸念が発生したようです。
・人への興味・関心が低くなるんじゃないか
・人を観察する能力が養われないじゃないか
「なるほど。当たっているね。これでマネジメント出来るなら、便利だね。ただ、データ見りゃいいんだろうとなって、人への関心がなくならないか?」と懸念された方がいました。
また、「そもそもマネジャーは部下を観察しながら育成していくんだよ。観察力が低下したら、マネジャーも育たないんじゃないか?」との懸念もありました。
とても、前向きだからこそ、生まれた懸念かもしれません。
ただ、人はそこまで短絡的ではありません。逆に人や組織への興味が増す方が圧倒的に多いのです。
実は我々もそうなんですが、データを見ることで、その人への関心が高まります。このデータで、「やっぱり、そうだよね」とか「なんで、こんなことをしていたの?」とか「へーえ、そう動いたか? なぜか理由を聞きたいね」とか。
つまり、一つの仮説を立てるデータとして利用できるので、日頃から疑問に思っていたことを確認するために活用できます。また、立ち話や面談の時に、データに基づき「君はこんな強みがあるから、こう考えがちだと思うんだけど、どうなの」と、かなり具体的で直接的な話になりますので、対話の質が高まるのです。
採用面接でデータを活用された方から「事前にFFSデータを見て履歴書を読み込めば、演繹的な質問が出来、短い時間で評価が出来た」と、その有効性を報告してもらいました。
数字で語ることは、定量的なコミュニケーションが出来るため、相互にズレが出ません。また検証された判断は、その精度を保ってくれます。コミュニケーションと意思決定の質を高めることは、当然ながら経営の精度を高めることに繋がるのです。
KKDから脱却しましょう。