古野のブログ
生産性の高い議論を知らなすぎる
2022.07.20
つい最近、「意思決定エクササイズ」を体験した人から、発表した内容に対して「批判的なコメントをされた」と指摘をいただきました。あるワークの出来栄えを「点数化した」ことも、合わせて。
別に個人を〝人として批判した〟訳でもなく、「意思決定のプロセス」や「報告された内容の効果性/妥当性は低い」と『効果的な議論プロセス』と比較して指摘しただけなのですが…。
そこで、なぜ「それが気になるのか」を検証してみました。
「勝ち負けが明確になるスポーツ」で考えてみたいと思います。「出来栄え点」や「技術点」「構成点」など、極めて定性的なことを点数化するスポーツ=フィギアスケートを一例にします。ジャンプやスピン、ステップは『基準』は示されているものの、最終的な「出来栄え点」は審判の主観に依るところが大きいのです。主観で点数化された結果ですが、最終的には、複数の審判の点数を平均化(最大、最小はカットして)することで「客観化」されます。
このように「点数化される」ことで、「良かったのか悪かったのか」や「何番目だったか」が明確になります。だからこそ、「自分の実力」がわかり、「課題」もわかり、次の試合に向けて励むことが出来るのです。
ビジネスの世界では、この「評価」「点数化」「批判」が進んでいません。
例えば、最終意思決定権を持っている役員会議。この決定で「投資に失敗した」とすれば、その『意思決定会議』に問題があったわけですから、その会議に出ていた全員で責任を取るべきです。しかし、多くは代表者だけが詰腹を切らされています。
それは「会議の質」そもそも、どんな議論プロセスを経ることがより〝精度の高い意思決定になるのか〟を知らないからです。歴史的には〝根回し文化〟で育っていれば、会議は「議論の場」ではなく、「周知する場」となり〝シャンシャン〟で終わるのです。従って、土壇場に『寝首をかかれる』こともありえます。「合理的な意思決定」とは言えないことが間々あるのです。
冒頭の話しに戻すと、「良い議論」を知らないから、自分たちの「議論は良かった」と思い込んでいたのだと思います。
ちなみに「良い議論をした」「良いアウトプットだった」と主張しやすいのは「受容性と保全性が高い個性の人たちを組み合わせた同質チーム」の時です。初めて出会ったメンバーにも関わらず「合意までが早い」「皆、納得している」からなのです。『満足度も高かった』のに、指摘されて〝不快〟になられたのでしょうね。
これは憂慮されることです。今の自分の「実力」や「点数」がわからないと、成長課題や目標設定も見えなくなるからです。
だからこそ、〝最適な意思決定プロセスを生み出せるチーム〟を編成出来る我々が、伝えていくしかないのです。
ご指摘いただいた人が、若手であれば、「経験不足」と切って捨てても良いのですが、人事の取締役という重責を担われている人です。「重要な意思決定の会議に出るであろう」立場の人が、『良い議論レベル』を知らなかったのです。
ただ、残念ながら、この人の問題というよりも「日本企業の組織に共通する課題」なのかもしれないと思うと、ゾっとしました。