古野のブログ
「慮ることは、本当は人に優しくない」
2016.03.09
我々は、「チーム編成」の重要性を実感してもらうために、『雪山に遭難したところから、助かるための意思決定・合意形成するエクササイズ』を参加者に体験してもらいます。基本的には、FFS理論の専門講座か、企業研修として実施します。これまで数百回、延べ千チームを超える数の議論です。
さて、この意思決定の議論でしばしば出てくるのが「相手を慮った」という説明です。その「慮ること」が何を意味しているのか? 日本的マインドが見え隠れするので、本日のテーマとしてピックアップしてみました。
この議論で目指して欲しいゴールは「全員で生き残る」ための意思決定であり、合意形成です。基本の選択肢は、「自力で下山する」「留まって救助を待つ」の二つです。その議論をベースにしながら「下山と留まるの二手に分かれる」という折衷案、ないし「1~2日待って、救助が来ないと下山する」という時間経過での変更も考えられます。
議論の中でどうしても、私が気になり、つい突っ込んでしまうことがあります。それは、「慮る」という言葉の定義の違いなのです。
議論が終わって、チーム毎に発表をしていただきます。その時、二手に分かれる案を出したチームは「リスク分散です。下山が成功したら、留まっている方を探す指示が出来るし、救助が先に来たら、下山した方向を伝えられる」という理由なのです。
こちらは納得できないので、さらに突っ込みの質問をします。
すると、「〝生き死に〟のテーマなので、本人の意思を大切にすることが慮ることでしょう」と説明してくれます。どうも、相手の思いや考え方を尊重することが「慮ること」と思っている人が多いようです。
もし「自分はこうすれば生き残れる」と確信があるなら、「相手を説き伏せて従わせることが本当の意味で相手を慮ることではないですか?」と問いかけても、「押し付けじゃ
ないか」と反論されるのです。
ただ、テーマは「命にかかわる」ことです。命にかかわるからこそ、生き延びる可能性が高いのであれば、押し付けでもいいので「助かる可能性を広げること」ではないでしょうか?
自分が立てたプランの方が可能性が高いなら、相手のプランは可能性が低い訳で、「生存の可能性が低い」と思っているのです。相手の意見を尊重することと、相手を尊重することは違います。前回のブログで書いた『意見と人格の同一視』と同じ現象なんですよね。
つまり「間違っている」と指摘し、「生き残る可能性が大きい方に導く」ことこそが、本当の意味で慮っているのではないでしょうか?
前回の「議論下手」と原因は同じでしょうが、ここは定義の問題として考えてみました。